晩酌と相撲好きのブログ

毎日ビール2本程度の晩酌とおいしいつまみ、そして大好きな相撲を愛しているアラフォー妻子あり男の心の内です。たまに本業の教育分野に関することもつぶやいたり。暇つぶしに見てやってください

愛情が薄いから子供をクルマから降ろし忘れるのか?

親が子供をクルマから降ろし忘れて9時間放置、その後子供が熱中症で亡くなる

という事故をニュースで見た。

 

人の親のはしくれとして、こういったニュースを見ると心にくるものがある。

正直言ってこういったニュースを直視できない。

あまりに不憫すぎる。親、子供どちらもだ。

もしも自分が当事者だったら… 精神が崩壊しそうだ。

直視できない。

 

 

ヤフーニュースでも当然、取り上げられる今回の事故。

そこに寄せられるコメント(ヤフコメは『思考のハキダメ』としてある種の参考にさせてもらっている。まともに見入ってはいけないコーナーだ。)には

「自分の子供を降ろし忘れるなどありえない」

だの

「親としての自覚がないからだ。私はいつも注意して子供に接している。」

だのと当該親御さんへの非難が殺到している。

 

もしも私が当該親だったら、批判は甘んじて受け入れる。すべて。

そして時を待たずして自害するだろう。冗談ではなく100%そうする。

遠い世界へ子供をうっちゃっといて、自分だけ現世で生き残ろうとは全く思わない。

さみしがりやの子供のためにもさっさと自害し、子供に寄り添う。

 

それはさておき。

 

子供をクルマから降ろし忘れるのは「愛情が薄いから」なのか?

 

私の意見は「No」だ。

 

子供というかけがえのない存在であっても、親だって人間だもの、注意の対象から亡失してしまう瞬間も時にはある。

 

人間は、「ルーティン」になっていることには注意力を傾けない傾向にあるようだ。

これは多くの人々が実感しているのではないか。

例えば玄関のカギ閉め。出がけついでに無意識にカチャりと玄関のカギを回す。

家を出て歩いていると「アレ?俺、カギ閉めたっけ??」

よくあることだ。

 

人間は、ルーティンのような無意識に近い形で無思考で行うことのできる行動には

注意を払わない。

いや、むしろ注意という脳のリソースを割かないようにするためにルーティンにしているともいえる。

 

今回のニュースの事例でいくと、

親御さんはお子さんを保育園に送ることが習慣化されていたように感じる。

それこそ、何も考えずとも子供をクルマのチャイルドシートに乗せ(チャイルドシートに乗せる作業がメンドイ。あと、チャイルドシートのベルトは極端に締めづらい。)、

保育園に向かい、家に帰る。

子育てに協力的だったが故の悲劇だったのではないかと推測する。

 

今回は、たとえ親御さんがクルマにお子さんを乗せっぱなしでも、

保育園側から連絡(今日来てないですよ、の)があれば事なきを得たはずだ。

 

前職時代は商売柄、出席していない生徒のご家庭には必ず電話を入れていた。

クソ忙しいときに対象の保護者の電話番号を検索し、時には「電話なんかかけてくるな」と文句も言われ、電話に出なければ時間を空けて再度リダイヤルせねばならず、自分のタスクが終了しない。

一本電話をかければいいじゃないかと園側を責めるのは簡単だ。

一方私は、この「園児が登園していないことを園の先生が知っていても家庭に電話入れない問題」には寛容な立場だ。

クソ忙しいのだ。特に幼い子供の行動は予測不可能だ。何が起こるか分からない。

四六時中目を光らせながら自分の業務を遂行し、なおかつ出るか出ないのか、しまいには電話したことへの文句まで言われる可能性がある連絡を入れることには心理的にも物理的にも相当な負担を強いられる。

 

園を責めても始まらない。

この一件を受けてその園の連絡体制は改善されるだろう。

しかしそれも限定的(期間と規模が)な効果だ。

園は変わらない(批判的な意味は一切ない)と思い、行動するしか、こちらはない。

 

では、私たち親は、何をどう変えればよいのか?

二つある。

 

 

まず一つ目は

 

私たちは、いくらかわいい我が子といえど、不注意によりその命を奪う可能性はわんさかある!

 

ということを理解することだ。

 

今回の事例でいえば、車から子供を降ろし忘れた親御さんに非難殺到しているが、

はっきり言って、だれもが今回のような事故を起こす可能性があるのだ。

いや、私は一度たりとも子供を命の危険にさらしたことなどない!立派に成人させた!という人もいるだろう。

でも、程度の差はあれ、お子さんが無事に育ったのは「運」だ。

運にすぎない。

 

というようなマインドになることが最も大切だ。

普通に子育てをしていたら、子供は死ぬ。

それくらいに思った方がいい。

 

愛情が薄いから子供が死んだ。

そう断ずるのはカンタンだが、

そもそも愛情ってなに??愛情の厚い薄いはどうやってはかるの??

これほど抽象的な言葉はないであろう愛情というワード。

こんなことを言っていても、悲劇を無くすきっかけにすらなりはしない。

 

子に対する愛情は、大体の親には備わっている。

その愛情とやらの大小は他者がはかることなど能わない、観念的事象だ。

 

もう一度言うが、ものすごい愛情をもって子を育てたので無事に成人したのではない。

死ぬ要素が降りかからなかった、もしくは降りかかったとしても偶然死ななかっただけだ。

そう。

運だ。

 

すでに子育てを終えた人には強制すべくもないが、

現在、そして未来にわたり子育てに関わる人たちにはくれぐれも

「子育てをすると、普通は子は死ぬ」

くらいに思っていた方がいいだろう。

 

ここまでわかっていただけたら、次の二つ目。

 

普通は死んでしまう子供を、いかに守るか?

 

を考えることだ。

 

これでたいていの命の危険からは回避できるようになるだろう。

 

回避しきれないのは通り魔や隕石落下など予防のしようもない事象のみだ。

 

 

私見中の私見だが、

今回の事故が起きた車両は、デカかったのではないかと感じる。

例えばワンボックスカー。

3列シートの3列目の端の席にチャイルドシートを装着しても、そこに乗る小さい二歳児をルームミラーにて視界の中で追い切ることは不可能に近いだろう。子供が居眠りすると「ろくろっ首」なみに頸部を引き延ばし頭を垂れるため、視界から子供が消える。

また、運転者が降車したとき、窓の色が濃い目のものだったら、外から窓を一瞥くれただけでは子供が乗っていることに気づきにくいだろう。というより車内が見えない。

 

だから、まずは抜本的な工夫として

3列シートの車を使用している場合は2列シートの車に変える

という手段が考えられる。

それも、コンパクトカーがいいだろう。

 

私はコンパクトカー乗りだが、子供二人と妻を載せて走ることが多い。

不便は感じない。こども三人だったらきついかなとも思うが、

その場合は送り迎えの時はコンパクトカー、休日はワンボックスカー、

などという風に完全に車を使い分けるルールにするなど工夫ができる。

 

私は断言する。

ワンボックスカーに子供を乗せたら、いつか必ず降ろし忘れる自信がある、と。

 

すべてはこの境地に達することができるか否かだと思う。

 

そのあとで、各論的な方法論に突入すればよい。

(誰かが言っていたが、子供をクルマに乗せたら子供のそばに自分のスマホや財布など、必ず車とともに降ろすものを近くに置くとよいらしい。素晴らしい考えだが、子供がそれらをいじくる問題が発生する。車内が各社ドラッグストアのポイントカードやキャバ嬢の名刺などで埋め尽くされてしまうかもしれない。)

 

思慮の浅い人々(ヤフコメはそのるつぼだ!)はとかく

「各論」や「精神論」を好む。

 

その前に大前提として

普通は事故が起こるものだ!

という認識を、各人の腑に落とすことから始める必要がある。

その必要しかない。

 

 

一度、我が子をほぼほぼ殺したことがある。

長女(4)と次女(2)と私の三人で手をつないで散歩中、

長女の服装の手直しをするために次女の手を放したその数秒後に

次女が車道に飛び出す寸前まで一瞬のうちに走り抜けていった。

 

ゆいかーーーーーーーーーーーーーー!!!!!

 

 

とジョセフの「シーザァアアアアアア!!」以上の勢いと声量にてなんとか次女の足を止めさせ、死を回避することができた。

これは100%運だ。運が良かったから次女は今、生存している。

 

 

もう一つ。

全く話がずれてしまうが、一か月ほど前。深夜に目が冴え、一人ドライブに出かけた。

前に勤めていた会社の近くを通りかかったので、当時の通勤経路にて帰宅を試みた。懐かしいなあ。そう思いながら会社の駐車場を出ると、はて?

「これって右だっけ?左だっけ?」

私は方向音痴ではない(むしろ妻からは『非方向音痴』の面だけは非常に高く評価されている。その他は酷評だ。けしからん。)。

また、前の会社の周辺はなんなら少年時代の私の生活圏内だったため、土地勘が薄いなどということも全くない。

 

でも、私は「当時、この右からも左からも帰宅可能な二択のうち、どちらを選んでいたのか?」すらも覚えていなかった!!

愕然とした。

通勤が、本当に完全なるルーティンと化していたのだ!!!

(この事例にはからくりがあり、前職時代は三度の引っ越しを経験しており、引っ越し先はすべて半径3キロ以内なのだが、引っ越すたびに微妙に通勤ルートが変わるため、思い出す難易度が高くなった。)

 

 

ありとあらゆることに対し、私たち人間は「注意がそがれる」可能性がある。

それは愛する我が子に対しても同様だ。

私たちは家族と暮らすだけではなく、仕事も持っている。重要な仕事に着手しているときと、閑散期とでは、ありとあらゆることに対し、注意力も変わってくる。

 

極端なことを言えば、人間に注意力はない、ということなのかもしれない。

だから、工夫を凝らす、仕組みを作る、人の助けを借りる。

 

自分には注意力がある。注意力のない人間は甘えているだけ

そういった主張をする気持ちも分かるが、物事を解決に導く(今回でいえば、悲惨な事故を無くす)ための意見を出し合おうではないか!

相手を非難して解決するのならそうしよう。でも解決しないだろ?

私は解決させたい。

 

だから、まずは自分が「普通に生きれば子殺しである」と自覚し、

それを回避する術を全力で考え続ける。

 

それを周囲に伝播させていく。

 

 

草の根運動の開始である。

 

 

いろんな工夫を凝らしていきましょう。

 

 

 

ちなみに、ミスをしにくくすることは可能です。

私はこの本を読んでからミスが格段に減り、もしくはミスをしてもその再現数を極限まで抑えることに成功しています。

これも、「自分にはワーキングメモリにハンデがある」と自覚することから解決に向かいました。自分にハンデがある、なんて思いたくない!

私はそう思っていましたが、今の自分よりもミスをしなくなる。このことだけに特化して、

いや、ある意味妥協してまっさらな感情で読み進めていきました。

超おススメの一冊です。読んでみてください。

 

絶対にミスをしない人の脳の習慣 単行本 – 2017/10/11