晩酌と相撲好きのブログ

毎日ビール2本程度の晩酌とおいしいつまみ、そして大好きな相撲を愛しているアラフォー妻子あり男の心の内です。たまに本業の教育分野に関することもつぶやいたり。暇つぶしに見てやってください

分不相応な相手と交際できた理由

私(当時35才、至って普通のオジサン)が若くかわいい女性と交際できたのはなぜなのか??

 

墓場まで持って行く予定の話でしたが、

せっかくなんで、私のように「モテない男性」の助けになればと思い

社内恋愛の体験を記しました。

 

コチラです

https://brain-market.com/u/mar1003/a/b3ADO0UTMgoTZsNWa0JXY

 

この記事は有料となります。

理由は、当時の関係者が見たら相手が一発で判明してしまうことと、

冷やかし無しの閲覧にて本記事を必要としている方々のお役に立ちたいと思ったからです。

 

よろしくお願いします。

「よいお年を」って言ってくるやつぅー!!

皆さんも昨日・一昨日あたりに言ったor言われたことだろう。

 

「よいお年を」

 

と。

今回は「よいお年を」というヤツをディスることとする。

 

 

さて、何が問題なのかというと

 

会話の最後に「よいお年を」を持ってくることだ。

 

私たち人類はそれに対抗する術をまだ持たない。

 

「お、おおぁ…」

くらいしか言えない。

 

そうではなく、例えば職場ならば

「よいお年をお迎えください。ではお疲れさまでした。」

と、「よいお年を」の後にコチラが答えやすい文言(もんごん)を添付してほしい。

 

そうすればこちらも

「お疲れさまでした。(場合によっては)よいお年をー。」

とレスポンスすることができる。

 

 

問題なのは、通常スピードで突然単発の「よいお年を」だ。

 

コチラも準備不足の中、通常スピードで「よいお年を」の早口言葉返しを強制させれらる。大体噛む。

 

 

ノーモーションからの「よいお年を」は非常に厄介だ。

そりゃ、言う方は気持ちがいいかもしれない。

気が利くでしょマウントを取れるかもしれない。

 

だがしかし

言う方の数倍もの難易度に跳ね上がる「返し『よいお年を』」を発射しなければならないのは私だ。

 

シャレにならない。

大変苦痛だ。

 

先に述べた通り、よいお年を、の後に何か続けてくれれば

その続けた文言(もんごん)に合わせてカウンターを放つことが可能となる。

 

 

 

あいさつはプロレスだと私は思っている。

相手の言葉をあえて正面から受け止め、予想通りのレスポンスをコチラが施す。

相手方も当然、レスポンスしやすいように気遣って言葉を発する。

 

あいさつにスピードや変化は必要ない

相手が答えやすいように挨拶を放つのみだ。

 

このことに思いあたらいない不届き者が

ノーモーション「よいお年を」を連発してくる。

 

鏡に向かって何千、何万回と繰り出したその黄金の右ストレートのごとく

次々と周囲の者たちに対して炸裂させ続ける「よいお年をスクリューブロー」。

 

大変迷惑である。

 

 

 

1億万%主観的な言い方になるが

 

よいお年をスクリューブローをかましてくるのは大体

 

 

低学歴な高年齢者

 

 

だ。

 

 

低学歴高齢者は相手の気持ちを慮れる人材が非常に稀有だ。

 

 

相手の返しやすさなど微塵も想像しない。

しかも、質の悪いことに「まともに挨拶も返せないのか」と憤る者まで出かねない。

 

 

私は断言する。

 

よいお年をスクリューブローを駆使する人間からは離れよ、と。

 

 

まともな人間ならば

「よいお年をお迎えください」

などと「よいお年を」の後に続く言葉を添えられるはずだ。

コチラはそれに対し「ありがとうございます」とワンクッション反射的に挟むことが可能だ。

ワンクッション、ジャブを挟んだらそれに続くストレートを返そう。

「ありがとうございます。よいお年を!」

 

そう。言われたコチラの方は「『よいお年を』スクリューブロー」を使用してもよい。

なぜなら、そこで会話が終了するからだ。

 

 

それを

何が「よいお年を~」とそっちから放り込んでくるのだ、この痴れ者めが!!

恥を知れ恥を!!

 

 

皆さんも、せめて「『よいお年を』スクリューブロー」だけは放たないように注意してくださいね。

 

さて、年明けは会うヤツ会うヤツに、電話に出るたんびに「あけましておめでとうございますことしもよろしくおねがいいたします」地獄が始まる。

いい加減にしてほしい。

 

仕事始めの9:00あたりに会社とかで「黙とう」して終わり。以降は社員同士で「あけましておめでとうございますことしもよろしくおねがいいたします」禁止

みたいな感じにできぬものか。

 

 

以上です!フンガー!

モンスター社員がいたらどうするっすか?

友人(同級生・42歳男)から会社の愚痴を聞いた。

 

同じ部署にいる30代女性が、モンスター社員なのだという。


傍若無人なその態度は、上司(友人)を上司とも思わぬほど。
傾向として、彼女と同じ「女性」に対するあたりが特にひどいらしい。

だもんだから、友人は勤務シフトを組む際、30代女性モンスター社員(以下女モン社員)と他の女性従業員を二人きりにさせないように気をつけねばならないのだという。

 

 


…無駄じゃね??

 

 


その労力、無駄じゃね??

なんでその女モン社員のために、無条件で「一手」多くせばならぬのか??

理解に苦しむ。


モンスターへの対抗策など一つしかない。
モンスターとは分かり合うことなどできない。

 

そう。

 

一緒に働かないことを選択するのみだ。

 

なぜそれをやらない?
なぜそれをやれない?

 


私は友人に強くそう問うた。

しかし友人は「いやぁ」「でも」を繰り返すばかり。バカもん!

 

聞けば聞くほど謎が満ちてくるのだが、
どうやらその女モン社員は方々から流れ着き、

とうとう友人の部署にたどり着いたらしい。

要は過去も現在も問題を起こしまくりなわけだ。
そんな中、友人に白羽の矢が立った。
友人は我慢強い。歯医者にもここ20年ほど行っていない(虫歯はガンガンにあるらしいが…)。


こんな女モン社員でも、こいつなら我慢してくれるだろうという会社側からの押し付けに友人は甘んじているのだ。

 

その場では私もこれ以上深くは突っ込まなかったが、
友人はこの「我慢」を美徳としている節があるように思った。

 

しかし、断言する。

残念ながら、我慢に対する評価は企業ではなされない
せっかく我慢していても、自部署の売上が悪ければ意味がない。
我慢しているのだから多少の粗相は大目に見よう、とは絶対にならない。

何なら、我慢の結果業績が下向く可能性の方が高いわけで、結局は会社からの評価は駄々下がりになる可能性の方が大きい。

我慢したという事実だけでは評価されないことに早く気づくべきだ。
私は今度友人と会ったらこれを伝えたいと思う。
イヤ、やめよ。
どっちにしろ俺のアドバイスなど聞くはずないしな…。もったいない。

 

そう。

 

私はあの変なおばさんに出会ってから悟りを得たのだ。
この時得た悟りは、今も変わらず普遍の真理であると自負している。

変なおばはんとは物理的に距離を取る他はない。

職場で物理的距離を取るとはこれすなわち、転勤か退職を意味する。

 

モンスターはいつまでたってもモンスターなのだ。
早く人間になりたい、とは毛頭思わないものなのだ。だからモンスターなのだ!!

 

モンスターを更生させることができないで何が上司か!
というお叱りの声もあるだろう。

しかし

モンスターの更生は人材育成ではなく、もはや医療行為に等しい。
私たちは医師免許をもっているのだろうか?
医師免許持たざる者は医療行為に従事することはできない。

 

そう。


私たちちんぱん、一般人にはモンスターを変えることはできないのだ!

大勢の聴衆の前で必ず大爆笑をかっさらうスピーチをすることは困難であると認識できても、
認知バイアス異常者の更生は可能だと論ずるものが多すぎる。

モンスター社員は認知バイアスのゆがみが顕著な者の事だ。
認知バイアスの歪みの矯正はたとえ医師であっても困難だ。


社会に貢献することが社会人としての使命である。
会社の業績を上げる=自社製品購入者が増える=助かる人が増える。
これの繰り返しが社会貢献だ。

 

勤務シフト組みやらなんやらに無駄な手数をかけることが社会貢献につながるものなのか?

友人にはぜひそこいらあたりを考えてもらいたいと思う。

 

最後に。

そのモンスター女性社員のためにも、
一緒に働かないという選択は大切なことと強く思う。

たとえその女性社員が退職に追い込まれようとも、一時的な金銭的損失は被ることにはなるが
長い人生スパンで考えれば
自らの傍若無人さにより周囲の誰かから強く恨まれ、結果命の危険にさらされる可能性も大いに考えられる。

 

道義的に誤った振る舞いが通用している今の友人の職場は明らかに正しくない。

 

本人のためにも、その態度ではこの職場にはいられない、ということを体験させてあげるべきだ。

何より、「え?あんな人を雇っているお店なの?」と客に気づかれたらおしまいである。

 
自分の会社での使命は何なのか?

よくよく考えて行動してほしいと思いました。

結構いいこと言ってるな俺。って思いました。


おしまい。

「コミュニケーションコスト」を意識できる人、実はあまりいない説

先日、友人Mから下記のLINEが届いた。

(同級生5人のグループLINE)

 

駅前辺りで
鍋が美味しい居酒屋どこかある?
会社の飲みに使いたい。
高くなくていいので 
チェーン店以外でそこそこの所で

 

どうやら会社の懇親会で利用する飲食店をご所望の様子だ。

私は返答に窮した。

 

今回はこのLINEをこき下ろそうと思ふ。

 

 

目次

 

 

1.「高い」とは何円からのことを指すのか??

 

まずはこれ。

価格を「高い・安い」という概念のみで表記するこの神経が計り知れない。

 

価格の高低は人により異なる。

社会的な立場・家庭内の状況・会社の懇親会に対する価値観などなど

いくらだったら高いのか?への感じ方は文字通り千差万別。

 

係長よりは専務の方が可処分所得は多いだろうし、

配偶者からの締め付けが強い人は小遣いが少ないだろうし、

そもそも会社の飲みなんかクソくらえだと思っている人にとってはたとひ100円であろうとも高く感じることだろう。

 

 

価格を具体的数値で記載することは社会人としての基本である。

このMという男(をのこ)は小売店の店舗マネージャーだ。

 

売店は日々、その日その日の売上ノルマを本部より求められる。

ノルマを1円でも下回ったら不達成。そういったシビアな世界だ。

 

にもかかわらず価格帯を概念のみで表現するこの男。

日々のノルマ達成についてもアバウトにしか思考できていないことが分かってしまう。

私がこの男の上司ならば正直、こういったLineを送られると

仕事の能力への疑惑の目を向けざるを得ない。

 

 

 

2.鍋が売りの店の選択肢の幅!

鍋が美味しい居酒屋に皆さんは行ったことがあるだろうか?

 

あるとしたら、それは

今まで行った全居酒屋件数のうち、何件に相当するだろうか?

 

 

思うに、かなりその率は少ないのではないだろうか?

ちゃんこ鍋、すき焼き、しゃぶしゃぶ、もつ鍋…

鍋と言ってもいろいろある。

そのなかで鍋料理を売りにして、かつ業態が居酒屋である店舗の数は

この秋田市の駅前に何店あるのやら!!

 

もしかすると一店舗もないのではないか?

それくらい鍋料理が売り、という条件はシビアだ。

 

非常に紹介しにくい。

 

3.チェーン店以外でそこそこのところで??

 

チェーン店を軽く見る人もいることだろうが、

それでもチェーン店はすごい。何もかもがすごい。

 

全てが完全にシステム化されており、Fラン大生のようなオツムにハンデを抱えている者がバイトしていても回るように、運営方法は練りに練られている。

 

食材の調達方法も、大規模組織の強みを生かし安価でまかなえる。

結果、商品価格に反映されている。

一定の質を担保しながら低価格で商品提供できる。

これが全国チェーン店の強みだ。

 

一方、それ以外の小規模店舗にはそもそも原材料を安く調達できるルートがない。

従って、商品価格に転嫁せざるを得ない。

要するに、全国チェーン店は競合相手にはならない。

 

価格以外の部分で顧客を獲得する。

小規模店舗の商品は安くできないのだ。

 

チェーン店以外のところでチェーン店並みに安い店は

怖すぎて逆に行けない。

 

 

4.会社の飲みで鍋??

 

鍋という料理は面倒なもので、

火が通ったら自分で器によそおわなければならない。

会社の飲みとなれば、必ずや配膳係の押し付け合いとなる。

 

私はこの配膳係になるのがことのほか苦痛だ。

自分のペースで、自分の分だけ取っていけばいい。

自分の動きが遅いために鍋の中身が全て無くなってしまっても問題ない。

他でカバーする。

だから、全員に一律に「誰か一人が」配膳するシステムには殺意すら覚える。

 

大抵、配膳は女性社員や男性若手社員が担当することになる。

完全なる男女・年齢差別である。

 

同じ費用を支払っているにも関わらずそこに「配膳」という「労働」が追加される。

私なら発狂するだろう。

 

 

なぜ会社の飲みでわざわざ「鍋料理」を選択するのか?

神経がしれない。

 

 

5.まとめ

 

以上の事を考慮し、「私ならこうする」をご紹介したい。

 

10日後の会社飲み会店舗を探している。

秋田駅からとほ10分圏内で

4000円~5000円の価格帯で二時間飲み放題付き、

鍋料理が売り、もしくはメニューにある居酒屋はあるか?

なければジャンル問わず同じ価格帯でのおススメ居酒屋を教えてくれ!

 

 

これでどうだろう。

だいぶ答えやすくなったのではないだろうか?

 

 

ものを尋ねる場合は

相手が一発でスッパリ答えられる質問の仕方をする。

社会人として最低限のマナーではないだろうか?

 

相手は「思考し、返答する」という労力を費やしてくれるのだから。

 

 

最後にMに対する私の返答を記載し、終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

赤からでオケ!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

イチビキ ストレート 赤から鍋スープ 3番 720g ×5個

いい年になっても改善できるって素晴らしい

サッカーW杯決勝戦

 

リアルタイムで観戦した。

 

今回も地上波での視聴となり

したがって解説者も前回記事の方と同じだった。

 

そう。

 

元日本代表の森岡さんだ。

 

前回記事では、森岡さんの解説に対する感想を

率直に書きすぎたためにお名前を出すのは控えたが

今回は出す。

 

 

なぜなら

前回の解説からかなりの改善が見られたからだ。

もしかすると私の記事を見たのか?くらい変わった。

 

最大の改善点は

 

自分の考えを述べるようになった

 

という点。

 

前回の解説では

森岡さんの考えはあまり言葉では表明されず

「状況の描写」が発言の主体を占めていた。

 

当然、状況の描写=実況 はアナウンサーの方が何十倍も上手である。

っていうか解説者のやることではない。

 

だが今回は違った。

森岡さんご自身の考えをしっかり言葉に表し、解説をしていた。

 

どうして変われたのだろうか?

 

テレビ局側から注意されたから?

自ら省みたから?

ネットなどで批判が来たから?

 

まあ、理由はどうあれ

一定の年齢の大人、崩していえば「いい年したオッサン」が

自分の行動を改善し、実際に行動に移すことは難しい。

若い人には実感として得られにくいことと思うが、これが想像以上に難しい。

 

今まで当たり前と思ってきた行動をやめること。

そして

そこから新たな行動を起こすこと。

 

この二つのハードルは年齢を重ねれば重ねるほど高くなる。

 

人間には、「今まで生き抜いてきた=死ななかった」という経験則が

頭の中を支配している。

今まで生きてこられたそのライフスタイルを変えることは人間にとってはリスクなのだ。

人間の頭はそう判断する。

 

いままで生きてこられた年数が長くなればなるほど、その経験則の重要性が増し、

経験則から外れることを拒否する度合いが強くなる。

これが、「人間が年を取るとガンコになる」理由である。

年寄り=ガンコは人間の本能なのだ。

 

 

だから、基本的に人間は自分を変えることを是としない。

変わらないことがこの厳しい自然界を生きるための自衛策となっている。

 

特に、仕事に関わることはなかなか変えることができない。

 

私の例で恐縮だが

前職時代、私の職場は日本一電話が鳴る教室だった。

 

私は電話に出る際

「はい。○○塾△△教室、晩酌です。」

と話していた。

 

しかし、

途中で上司になった男性(50歳代)が

「お電話ありがとうございます。○〇塾のサトウです。」

と出ていたのを見て、お、これはいいな、と思った。

 

「お電話ありがとうございます」というワード、

なんと顧客に寄り添った一言だろうか!

私はチラッと「上司の真似をしてみよう」と思ったのだが

しかし今まで慣れ親しんだ「はい。○○塾…」を突然変えることは難しかった。

 

何が難しいかというと、

すでに何千、何万回と「はい。…」で電話を出ているので

もはや"反射"にまで昇華されているとすらいえるこの行動を変えるのはかなりの労力と手間と、何より心理的負担がかかるのを感じた。

 

絶対に「お電話ありがとうございます」で出た方がいいに決まっている。

でもそれができない。

自分の反射に抗ってまで、苦労してまで新たな習慣をインプットする意欲が出なかった。

 

結局、「はい…」と出る電話を貫いて前職時代は終焉を迎えた。

 

電話の出方一つとってみても、

ある程度の年齢=経験を重ねると変化を億劫がるようになる。

これが通常の人間の姿だ(自分の怠慢を擁護するわけではないが…)。

 

しかし、

私より何年か年長の森岡さんは

それをやってのけた。

 

まだまだ自分の考えを述べるのには慣れていないせいか

「~だと思います」

という表現を多用していたが、事実自分の考えを自分の言葉で表現していた。

 

森岡さんは今までも、解説時に

・自分の考え

・不確実な予測

を発言をすることを良しとしてこなかったのだろう。

 

どちらもしょせんは流動的で見方によっては無責任と感じられなくもない。

根本的には森岡さんは、責任感あふれる人物なのだと私は感じる。

 

 

でも、森岡さんは変わった。

変えてきた。

 

 

人が努力して変わる姿を見るのはとても幸せなことだと私は強く思う。

これは前職時代に生徒に対して思っていたことと同じなので

職業病の一種なのかもしれない。

 

でも

何歳になっても自分をよりよくしていく。

そういった考えを持ち、実践している人たちはありきたりな表現だが、輝いて見える。

 

そういった「人が変わる姿」を見て否定的な発言をするヤカラもいる。

「『ガワ』だけ変えたってなんにもならねーんだよ」

 

いきなり100%のクオリティで変化することのできる人間は皆無だ。

大体が回数を重ね、クオリティを上げていく。

自分で変化したことのない人間はこのプロセスを知らない。

自分が変化したことがないからだ。

 

だから、人の変化を平気でけなすことができる。

 

電話の出方を変えることはしなかったが、

生徒や保護者の方々、そして社内の人間に対する接し方を

私は常に模索していた。

特に、生徒への接し方は日々改善の連続だった。

 

そういった経験があり、

今回のW杯決勝戦の解説を聞いていて非常に楽しかった。

希望に満ち溢れる気持ちになった。

 

人が頑張って変わろうとしている姿を理屈抜きで応援したくなる。

一気に森岡さんのファンになった私なのでした。

 

今回のW杯、人生で一番長い時間視聴したが

サッカーって面白いんだなと感じた。

正直、今までは

すぐにピッピピッピ笛がなるし

こけ方=演技力がうまい奴が報われたり、

エリア内でのファールは取らない暗黙のルールがあったり、

とにかくサッカー本来の技術やルールが半ば無視された混じりっけ100%の競技だと感じていた。

 

しかし

VAR判定の導入等により、飛躍的に「まっとうな技術を磨いた選手」が報われようとしている。

 

そういった背景もありサッカーも捨てたもんじゃないな(捨ててたんかいな)と思い始めた。

何より、キックオフから試合終了まで、日本代表以外の試合では全く見たことがなかった私が、外国同士の試合をなんと2試合も最後まで見てしまった(しかもどっちもPK戦までもつれる!)!

 

 

そんなこんなでサッカーに興味あるやつが一人増えたし、その影響の一端を森岡さんが担っているよというお話でした。

勝戦終わった直後に書いた。

いつか日本も決勝に行くだろう。

4年後も楽しみだ。

解説者の任務とは

先日のサッカーW杯 ブラジル―クロアチア戦をリアルタイム視聴した。

 

地上波での観戦となった。
眠い目をこすりながら緊迫した試合展開に心躍らせた。

 

後半、試合が動き始めたころからか、あることが気になり始めた。

それは、解説の「元日本代表」の人物の発言内容だ。


どうも、節々に違和感を覚える。

その違和感の正体は「解説なのに実況している」だった。

 

実況アナウンサーが「ブラジルがボールを小刻みに動かしてきましたね」
と解説者にふると、
解説者は「後半なのに相手選手は疲れている様子も見せないでよく動いています。」
などと「んなこと見りゃ分かるわい」ということばかりおっしゃる。

 

最終版のPK戦の際に実況アナが「どう蹴るでしょう?」と問うと、
やっと「分かりません。」
という言葉が出た。

 

そうなのだ。


彼には、実際に試合をしている選手たちの心情など最初から分かるはずがなかったのだ。
だから、実況まがいの発言ばかりしてしまっていたのだ。
実況するなら、しゃべりのプロであるアナウンサーに任せた方がよい。

 

解説者の彼には、実況アナから問われることすべて、「W杯4強を争う試合に出たことすらない自分には分かりえない」という意識が働いていたように思う。

 

解説者を擁護するならば、彼はおそらくは責任感の強いタイプの性格なのだと思う。
だから、解説者を任せられながら「分からない」と発言することは「責任を放棄する」ということにつながると考えたのではないか。


なので、深層に踏み込めず、かといって何も言わないわけにはいかない、したがって表面に見えることを言ってしまった。
そういった流れだったのだろうと想像する。

 

しかし

放送を見ている側からすると、「んなこと見りゃ分かる」ということをこうも連発されるとたまったものではない。
途中からは解説者除いてくれとすら思ったほどだ。
解説者に能力がない、と誤解されるだけではなく、解説者が憎い、とすら思われかねない言動だったように私は感じる。

 

分からなければ分からない。それでいいのではないか?
はったりが通用するような断片的な分量であればいいかもしれない。
しかし、放送全編通じて「分からん」状態が続くのであれば、

もっと早い段階で「I can't」宣言をした方がよかったのではないか?

 

そして、次に解説に臨むその時まで、自分の知識量を増やすべく猛勉強だ。
各国の様々な試合をアーカイブにて観戦しなおすことでそれぞれの国の傾向がつかめてくると思う。


その傾向をもとに、一番可能性の高い行動選択肢を言葉に表す。
その積み重ねが信頼を生んでいくのではないか?

 

自慢ではないが、
私は大相撲の取組について、大部分の勝敗を言い当てることができる。

ただし条件があり「発気よい、残った!」から1~2秒経過後に限る。
力士両名の「形」が決まってからの予想精度の高さには定評がある私だ(なんの定評なのだろう…?)。


それはこれまでの人生で見てきた膨大な数の取組によるデータからはじき出される、ある意味ID解説だ。

 

私にはプロの一流力士の心情など知る由もない。
しかし、取組開始後に力士の形が決まった後なら、ある程度の勝敗の予想は可能だ。
ここには力士自身の立場やプレッシャー思いなど介入する余地がない。

 

解説者はまず、この膨大なデータの蓄積ありきの仕事なのではないかと思う。
そこに「思い」が乗っかることで他者とのすみ分けが生まれる。

そう。
まずはデータ。勉強なのだ。


解説氏には勉強のすゝめを促したい。

 

以上、ド素人の意見でした。


さて、どこが優勝するかな? 

強者のみ有効

ボクシング漫画「はじめの一歩」の一場面。


主人公の先輩、鷹村守が相手のパンチをもらいダウン寸前まで追い詰められた際
鷹村が「睨み」で相手を怯ませ、ピンチを免れた場面があった。


師匠でセコンドについていた鴨川会長はその睨みを
「強者のみ有効なハイレベルな駆け引き」
と表現した。


もしもこの「睨み」を並みのボクサーが実行しても効果は発揮されない。
なぜなら、睨んだところで「なにもない」のが明白だからだ。

 

強者が「睨む」と相手は「いくらダメージを負っていると言っても相手は強者。どんな手札を持っているか分からない」
と警戒する。

 

要するに、睨みは強者の実力と背景(歴史)あってこそ有効な威嚇手段となるのだ。

 

 

 

さて

私が毎日しゃべり散らしている音声配信では、様々な番組が毎日アップされ続けている。
正直に言って、9割がタメにならない。よって、私は他の配信者の音声を聴取していない。

 

だが、たまに「タメになりそうなタイトルだな」と思い聞き始めると、
なんと冒頭から自分とその番組の自己紹介が始まる。

 

「私はこれこれこういう実績を出している人物です」
「この番組は日々の暮らしから役立つなんちゃらかんちゃら…」
「良かったらいいねやフォローをしてください」

 

と、大体が1分ほど、もしくはそれ以上の時間、本題に入らずいらぬ声を強制的に聞かせられる。

あまつさえ、その長大な自己紹介ののちに、「今日買い物に行ったらこんなことがありましてね…」
などと本日の小話まで頂戴してしまう事態になることもある。

 

いいから、さっさと本題をしゃべってほしい!!
余計な前置きはいらないの!!


確かに、著名で人気の音声配信者の多くは、上記のような宣伝や小話を放り込んでくる。
それでも人々は聞き続ける、なぜなら、結局役立ったり面白いことを言うということが分かっているからだ。
もしくは純粋にその人のファンか(アイドルとか)。

 

しかも、著名で人気の音声配信者はおおむね「話すこと」が上手だ。

私が聴き続けているキングコング西野さんの音声チャンネル。
さすがに一流のプロのしゃべりだ。
私たちチンパンジ、一般人が逆立ちしてもこの話芸にかなうことはない。
しかも、放送内容が実は話芸のすごさよりもレベルが高い。

 

そりゃ、どんなに番組中に宣伝を入れられても聞き続けてしまうというものだ。
なんなら、冒頭の小話をメインに聞きたい人もいるだろう。

 

そう。

こういう人が「強者」なのだ。


一方、世の多くの音声配信者はチンパ一般人だ。
強者弱者の二元論で言えば、確実に弱者だ。

 

弱者は強者の真似事をしても意味がない。
(どころか、そのホスピタリティの低さを疑われる原因にもなりうる。プラマイゼロどころかマイナスだ。)

 

前述のように、番組冒頭に自身の宣伝や拙い事故、いや自己満足感あふれる小話を披露したい気持ちも分かる。
いっぱしの有名人になったかの気分にもなれる。より多くの人々に聞いてほしいという欲も心より理解できる。

 

しかし、
多くの新規聴取者がどこの誰かも分からない馬の骨配信者のことを、
「この配信者は役立ったり面白いことを言ってくれるのだろうか」
という審査の目で見られていることを意識できているのだろうか??


私は、巷で音声配信が普及しない根本的原因は、全体的な「その質の低さ」にあると感じる。

 

私たちはもっと、新規聴取者に対して優しい配信を心掛けるべきだと思う。
だから、冒頭での自己紹介や小話は不要なのだ。


この放送が面白いな、と感じたらリスナーは勝手にその配信者の事を検索してくれる。
配信者自らアピールして「そうか、こういう人なんだ!フォローしよ」とはならない。

世の音声配信者はこれらの事に気を付けるといいなと思いました(小学生 )。

 

ところで

はてなブログには様々な人たちが日々ブログを執筆し、アップしている。
その中で気になることがあり、それは

 

改行がまったくない記事が散見される

 

ということだ。

確かに、面白くためになる内容を執筆できる人の記事は無改行だとしてもなんとか読む気にもなる。

しかし、その「ガワ」だけマネして無改行にしても意味がないのだ。
どころか、私はその「ガワのマネ」をするような人に嫌悪感に近いものを覚える(あくまで個人の感想です)。

 

なぜなら、自身の人間としての魅力やお手軽に「強者のマネ」をして努力・実践なしの階段飛ばしで評価を得ようという浅はかな思考を手に取るように感じてしまうからだ。そうではなく、ブログならその内容で読ませるのが先ではないか?無改行という少数派のレイアウトを採用する革新派然とすることがスマートだという誤認のもとにブログを執筆していて何か実になるものはあるのであろうか?無改行は本記事内容が圧倒的に面白く、示唆に富む誰もが納得する高い質を誇るからこそ見栄えする、強者が用いる高度な手段だ。無改行は基本的には読む相手を冒涜する行為だと私は思う。しかし、その冒涜が記事内容の充実により解消されるのであれば、それは一種のアトラクションにも似た効果を演出するのだとも感ずる。


と、いうわけで、私もまっとうにまずは「内容で」評価をされるように発信活動を継続したいと思いました(小学生)。