私は歌が上手い。
シロウトの中では飛びぬけて上手い方だと思う。
自らこんなことをぬかす私の正気を疑うかもだがどうか分かってほしい。
以前、テレビ番組「水曜日のダウンタウン」で
自分のことを「上の上」という女性いない説
みたいな特集を組んでいた。
街行く美人をつかまえインタビュー(自分の容姿を『下の下から上の上』の間で表現してくださいという要求)していくと案の定、(圧倒的美人にも関わらず)「中の下」だの「下の上」だの挙句の果てには「下の下」などとほざく美人まで存在した。
では本職のモデルはどうなのか?現役のバリバリモノホンの美人三人に聞くと三人とも自分の容姿を
「上の上」
と返答した。
さすがだ。
モデルになるには生来の容姿と体形が不可欠だがそのメンテナンスもまた不可欠だ。
生来の容姿と体形を兼ね備えた人は一定数存在するがモデルという職業に耐えうるメンテナンス意識とそれを継続するマインドは後天的な能力だ。
私の想像にすぎないが、この自己評価「上の上」モデルたちは生来の身体的特徴よりもそのメンテナンス力、いうなれば後天的能力へのプライドを強く抱えているのではないかと思う。
持って恵まれた身体的特徴を維持し、いやむしろより輝かせるための節制を継続し続ける。
「(あんたは)太りにくい体質でうらやましいわ~」などとぬかす肥満人がたまにいるが
その肥満人と同量の食事量を摂取したら誰でも太るのだ。食いたくてもその食欲にブレーキをかけることのできる人が適正体形を維持することができる。
そんな感じだ。
は?
だから、私が自身の歌唱力を包み隠さず「高い」と表現するのはそんな感じなのだ。
は?
私が小学三年生の時、学年をあげて合唱に力を入れていた。今は亡き(正確には現在、全然違う場所に同名の小学校が新設されているが)横手北小学校にいた頃だ。
全国かまくら音楽祭だったか、横手色過多の合唱祭への参加に向けて
かなりの練習量を叩き出していた。
今思えばかなり膨大な練習量だったように思う。現代ではとても容認されるものではないだろう。多分授業時間減らしてたし。
そんな合唱ガチ雰囲気の中、ある日の練習時に「前列に立つ人の選抜」が行われた。
前列には歌うまな人材が必要らしい。
一人ひとりワンフレーズを先生の前で歌い、ふるいにかける。
私は歌に全く自信がなかったのだがなぜか選抜された。一発で。大体が決めるまでの時間が十秒程度あったのにもかかわらず私のときはむしろ歌い終わらないうちに食い気味に決まった。即決とはこのことを言うのかというほどだった。
これ以来、自分の中で「あれ?俺ってひょっとして歌うまな部類に入る?」というような疑いを抱えることとなった。
もともと幼児の頃から歌うことには抵抗がなく、小学生になるとラジカセでカセットテープ(仮面ライダーブラックRXの主題歌は100億回ほど歌った)に合わせ歌唱することが習慣化されていたように記憶している。
小学校高学年~中学生になるとCDをかけながら歌うようになり、しかし
「このCDの歌手のようにうまく歌えない」
というどうしようもない悩みを抱えながら生きていたりもした。
高校生になり
一番の悩みはビブラートを効かせられないことだった。
GLAYのファンになりそのCDに合わせて歌うも自分の理想とはかけ離れた歌唱となってしまう。
完全に「小3の合唱コンクールで前列に選ばれた自信」は崩壊し
自身の歌下手さにコンプレックスを抱えるようになる。
高校の音楽の授業でもまた、意外と本格的に合唱させられた。
私は自身の「歌コンプレックス」の影響により大声での合唱参加がなかなかできずにいた。
隣にいる男子生徒はガンガンに大きい声で歌っている。こういう人物が歌うまというのかな?などと思ったりもしていた。
ある日、音楽の授業で歌唱テストがあった。
一人ひとり別室の音楽準備室にて先生(じいちゃん)のピアノに合わせ課題曲を歌う。
私の番が来た。どうせ低評価だろうな…
と思いながらも普通に歌うと先生が「ん?」となり課題パートが終了しても「もう少し続けて歌おう」と要求され通常よりも長く歌唱する羽目になった。
私は自身の歌唱力にさらに自信がなくなった。
が、
私のテストの結果は最良のA評価だった。
大きい声で歌唱していた隣のあの男子はBとのこと。
あれ?俺ってやっぱ歌上手いんじゃね??
このころから自身の歌唱力を信じ始めた。
それからはカラオケにいけば「どうすればうまく歌えるか?」を考えながら歌った。
課題のビブラートもなんのことはない、音量に制限を設ける必要のないカラオケボックス内ではいとも簡単に実現させることができた。
一種のマインドブロックだったのだろう。
家で声量セーブしながらのビブラートは、遠慮なく大きな声で歌える環境よりも難しい。
なんだ。俺、問題なくビブラート効かせられるやんけ。
自分の歌唱力の高さに確信を持った高校時代以降、さらにそのクオリティーは増していく。
文章ではうまく表現できないが、歌を歌う際に気を付けていることがあり、
それは
音を探らない
ということだ。
歌唱力なき人はピアノの鍵盤のように「ポンっ」「ポンっ」と音程を出すことができない。
だからあたかもギターのスライド奏法のようにある意味まどろっこしい歌い方になってしまう。
もちろん、あえてスライド奏法的歌い方を用いることもあるが、全部が全部そんな感じだったら聞くに堪えない。
車で鼻歌を口ずさむときも「最高の鼻歌を歌う」と決めている。
ビブラートも効かすし音程もバチっと合わせることにこだわる。
どうすればこの歌唱のクオリティを高められるか?こういったことを常に考えながら鼻歌とは言え歌っている。
時にはどうあっても今日はうまく歌えない(ノドが不調のため)という場合があり、そういったときは鼻歌を歌うことをあきらめる。
ノドの不調により確実に低パフォーマンスしか出せないとなればカラオケには行かない。カラオケに行ってうまく歌えないような事態に陥ったらば逆に私にとっては「莫大なストレス」になってしまう。
どうすればもっとうまく歌うことができるのか?
歌うなら最高の歌唱を。
上手く歌えない状態のときは徹底的にノドを休める=歌いたい欲を抑える
大げさではなく私は常にそんなことを考えている。
私は正確には鼻歌を歌うことができない。中途半端な歌唱(らしきものとはいえ)は私にとって悪なのだ。
そこには誰かが聞いている、聞いていないは全く関係ない。
余談だが、歌唱力は先天的能力だ。練習で「歌ヘタ」な人が「歌うま」になることはできない。
残酷だが事実だ。
※「歌ヘタ」からの脱却は可能
当然、ボイストレーニングなどの訓練はどの歌手にも有効に作用する。
しかしそれは、野球に例えると
140㎞の球速を150㎞にする
といった感じだ。
もともと100㎞しか速度が出ない人はいくら訓練を積んでも140㎞にも到達することはできない。歌の場合ね。
医学的に正確な部位がどこなのかは分からないが、
私は「ノド」と表現している。
このノドの強さは完全に生まれ持ってのものだ。後天的に強めることはできない。
私はこの先天的ノドの強さを幸いにして持っていた。
私の父も歌が上手かった。母は下手。弟も下手。妹はどうだったか?少なくとも私レベルには達していないだろう。
そう。歌の上手さは一義的には
うまれつき強いノドを持っているだけ
なのだ。
私は歌の上手い人、言い換えれば強いノドを生まれつき持っている人の歌唱を聞くと震えが走るほど感動する。
生来の体質(ノドの強さ)とそれを補う訓練。この背景を、歌うまの端くれとして感じる部分も多分にあると思う。
何より、圧倒的な歌唱力は人間の心を強震させる。
プロ野球では軟投派でも活躍できるが
見ていてより心躍るのは
165㎞の真っ直ぐを連発して抑える投手だ。
人はなぜ100メートル走に興味を惹かれるのか?
天賦の才を持たぬ限り到達しえない領域へのあこがれ
があるのではないか?
私が最も心を動かされる歌は
天賦の才とそれを洗練した歌唱
なのだ。
正直言って、世に存在する大体の歌手の歌唱力は、私のあこがれとは程遠い位置にある。
これは言い換えれば、「俺も歌に本振りすれば追い付ける程度」の歌唱力であるともいえる。
ホントかどうかはともかく、私の主観はそうなっている。はっきり言ってものすごい自信家だ。
そんな私が逆立ちしたって勝てない歌唱力を持つ歌手がいる。
宮崎重明氏だ。
前述のとおり、大体のプロ歌手も「自分より上手い」とは思えない私が手放しで敗北宣言する数少ない歌手である。
再結成あれば泣くかも。
ここまで読んだあなたは。断言する。相当のヒマ人であると。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
今日は以上です。