晩酌と相撲好きのブログ

毎日ビール2本程度の晩酌とおいしいつまみ、そして大好きな相撲を愛しているアラフォー妻子あり男の心の内です。たまに本業の教育分野に関することもつぶやいたり。暇つぶしに見てやってください

勉強にならなかった勉強会

 

家の段ボールの中身を整理していたら三冊の本が発掘された。

以前に書店で購入したものだ。

しかし、私はこれらの本をあまり熱心に読まなかった。

では、なぜこれらの本を買ったのか?

理由は一つ。上司に強制されたからだ。

 

 

今から7~8年前、私の直属の上司はなんというか「意識高い系の体育会系」な面倒くさい人物だった。

 

「仕事なんてそこそこやってそこそこ数値達成して定時出社定時退勤できるようになるのが会社員の使命」という考えの私とは正反対で、仕事に生きよ、というタイプだった。

だから上司の私への当たりはキツかった。根本的に、私の考えを「悪」と断じ早出出社そしてサービス残業を強いた。

誤解なきようにお断りしておくが、私は決して「グータラ社員」ではなかった。なんなら真面目に一所懸命仕事に取組み、数値という名のノルマは最低限達成していた。未達成で終わることはほとんどなかった。全国組織の会社だったが、他地域を見渡せばそこそこ達成どころか、「数値未達成」で終わっている拠点などごまんとあった。

私は、ただただ正規の時間で働き、休みの日は例外なく休ませてくれよ、と主張していただけだった(し、必ず休んでいた)。

しかし、それではダメらしかった。なぜなんだろう?純粋に今でもナゾだ。

今考えれば、給与面でも影響が出ていた、大いに出ていた。今になって分かる。

 

その頃は、出社するたびに上司からものすごい目つきでにらまれるのが日常になっていた。今ならパワハラ訴訟で瞬殺できるほど悪意に満ちた目つきだった。

具合の悪いことに、上司は決して暴力には訴えてこなかった。コンタクト系のスポーツに秀でていた上司の格闘能力は低くなかったはずだ。

私はひそかに「手を出して来いよ。10倍にして返してやるから」と常に思っていた。ボクシング経験のある私からすれば、相手の攻撃をかわし(or受け止め)、左右のパンチを合計10発相手に当てるまでに7秒かからない。

 

余談だが、ボクシング経験者と素人の違いの一つに「左右でパンチが打てる」ということが挙げられる。大体の素人は利き手で振りかぶってパンチをふるうが、逆の手でパンチはなかなか打てない。打てたとしても威力不十分。

経験者は逆の手でも当たれば倒れるパンチを繰り出すことができる。素人とは単純に攻撃機会が倍になる。これはかなり大きい。

 

格闘についてはさておき。

 

上司はある日、「これから毎週月曜に勉強会を開くことにした。」と言ってきた。

私と、後輩の女性社員が強制参加させられる羽目になった。

これもタチが悪く、上司は決して「ワード上」は強制色を出さない。「お前たちが必要だと思うなら勉強会を開催する。どうだ?」のように言ってくる。その時の上司と私の関係性では「いりません」とは到底言えなかった。今なら逆に「勉強会開いて教えてあげますよ」と言えるし、実際にいろいろなことを教えて差し上げることができるのだが。

 

かくして毎週月曜の上司主催勉強会が開催されることとなった。

時間は午前11時から。一つ注意点が。この時の仕事は13時出社の22時退社が定時だった。

だから勉強会のために毎週月曜は定時の二時間前に会社に行く必要がある。

8時出社の人が6時に出社するのと同じだ。どうも、仕事の時間帯が遅くずれると「余裕じゃん」と思う人が多いのだが、きちんと定時から逆算して考えてほしい。プンプン!

 

肝心の勉強会の内容は、上司の哲学のレクチャーだ。

今思えば「とてつもないギャグセンスだ」なのだが、当時は真面目にダルがりながらも上司の考えを吸収せねば、みたいなことを少しは思っていた。愚かだ。

 

上司の哲学を学ぶ上での入門書が、冒頭の画像にある三冊の書籍だ。

稲森和夫と松下幸之助の著書。経営を志すなら必ず読んでおきたい三冊だ。

ただ、残念ながら当時の私は定時マンだったため、これらの内容は崇高過ぎてついていくことができなかった。

だが、上司はお構いなしに私と後輩に自らの哲学をひけらかしてくる。

 

苦痛だった。講義内容はそれほど苦痛ではなかったかもしれないが、定時の二時間前に出社するのが何よりも苦痛だった。私は「定時」に異常にこだわっていたのかもしれない。定時から逸脱するのは天地がひっくり返るも同義。もしかすると、このこだわりは発達障害の一種なのではないかと今振り返ると思う。自分としてはその気があっても何ら不思議ではないが…。

 

二時間前出社という、勉強会への「入り」が苦痛だと、講義内容もそんなに頭に入ってこない。

今現在、発掘された書籍をパラパラと見返してみると、ところどころラインが引いてある。おそらく、勉強会の時に引いたものだろう。はて?なんでこんなところに線を引いたのか?さっぱりわからん。

つまり、この勉強会のことを全く覚えていないのだ!半年は続いたかと思うが…。

 

この数年後にこの上司は会社を退職し、この会社のフランチャイズに加盟し、店舗運営をしている。個人事業主だ。自分の働きがダイレクトに収入に直結する。腕の見せ所だ。

しかし、開業当初から直営本部である私のもとにヘルプの電話が後を絶たない。主に人員補充の依頼だった。こっちもいなくて困ってるんだよ!

私より上の立場であるエリアマネージャーには資金繰りの悪化の相談なども来ていたようだ。

要するに、元上司の運営する店舗は流行っていないのだ。

 

直営本部の長である私のもとには、元上司の店舗に対するクレームが何件も来た。

そして現在、2022年も鳴かず飛ばずのようだ。少なくとも、複数店舗展開ができていない。夢のまた夢だろう。

 

そう。

 

そんな奴に何を私は教わっていたのだろう??

 

逆を言えば、

自店舗一つまともに黒字化できない程度の力しかない奴が、

なぜ勉強会を開いてやるなどということができたのだろうか??

 

今もって不思議だ。

 

 

人間、抽象度の高い事柄を理解することは難しい。

しかし、抽象度の高い事柄はそれとは裏腹に「理解したつもり」になれる要素も多分に含む。要は解釈が人それぞれ違っても間違いではないのだ。

 

松下幸之助の「道をひらく」の一節にこんな記述がある。

 

自己を捨てることによってまず相手が生きる。(中略)おたがいを生かし合う謙虚なものの考え方を養いたい。

 

 

 

私の本には、この部分に線の書き込みがあった。おそらく当時、勉強会で扱った題材なのだろう。

上司はここから何を学んだのだろうか。

 

店舗が流行っていない、ということは客のニーズに応えられていないということに他ならない。

自分の提供したいもの、ではなく市場が欲しているもの。

この提供を最優先に考えなければならない。この店舗は塾だ。

客が塾に欲するものって何だろう?何のために高い金払って塾に行くのだろう?

礼儀を身に着けるため?学習習慣を身に着けるため?

全く違う。

 

答えはただ一つ。成績を上げ、志望校に合格すること

 

これが客の願いだ。これのみが客の願いなのだ。

 

元上司はこのニーズに応えようとしているのだろうか?

生徒の成績の上げ方を分かっているのだろうか?

 

例えば、英語の成績を上げるには、文法などそこそこに、

教科書本文をすべて暗唱できるようにすることが何よりも大切であることに気づいて実践できているだろうか?

まずは知っている英文を増やし、余裕があれば(すでに合格水準に達しているならば)そこから体系的に文法を学び、英語の力を肉付けしていく。これが英語学習の鉄則だ。

 

脱線するが、世の中のほとんどの塾は上記英語の指導ができない。

なぜなら、これを実践するということは、英語の授業が英語力の高い生徒に対して以外はほとんど不要となることを意味するからだ。英語の文法授業を生業にしている者の失業を意味することになる。

 

英語の授業や教材は、提供する側の論理で作成されている。

多くの英語の問題集は文法のテーマごとに分けて構成されている。

 

しかし、世の中の入試英語で「ここは不定詞の問題ですよ」とわざわざアナウンスしてくれるものはあるだろうか?ない。

 

もちろん長文の問題集もあるが、使うのであれば、それは最後の最後の仕上げに使用せねばならない。

まずは教科書(高校生は副教材も)の英文をすべて読めて表現できるようになること。そのためには教科書の音読作業が日常の学習となる(たまに書くけど)。

これには英語の授業が介入する余地はない。介入余地があるとすれば暗唱補助くらいだろう。

「ある部分を日本語でいうから英語に直してみて」など、教科書の英文を覚えたかどうかのクイズ出しくらいしか講師の役割はない。

 

これでは客に「これが英語の授業です」と言って金をとることはできない。

だから世の中の英語教材や英語授業は、講師が何とか強引にでも、その授業効果が低かろうがなんとか生徒に介入しようとするために「文法」くくりとなって提供されるのだ。文法のレクチャーならいくらでも介入できる。

しかし、ある程度の英文を覚えている生徒ならともかく、多くの英語苦手生徒にとっては、英語学習の入り口が「文法」である必要はないというかあってはならない。

※正確には、最初にさらっと文法事項らしきことを説明するのはアリ。あくまでさらっと。

 

 

……みたいなことを元上司は考えたことがあるのだろうか?

学習塾を経営する以上、「通って成績が上がるかどうか」は最も大切な要素だ。

他の何を犠牲にしてでも成績の上げ方を追求するしかない。

 

それが松下幸之助の言う「自己を捨てることによってまず相手が生きる」形なのではないだろうか?

 

生徒に礼儀や心構えなどの抽象論を唱えることはカンタンだ。

しかし、それに逃げてはいけない。

抽象論を唱えて生徒の成績は上がるのだろうか?

どうすれば生徒の成績が上がり、実際に100%の再現性をもって持続させられるか?

 

これを追求し続けることが学習塾のあるべき姿なのではないか?

 

 

 

 

ほらね。深いでしょ?

正直、浅いのは元上司だけではなく、前の会社全体に言えることだ。

元上司だけを悪者にする気もない。

 

ただ、私が前の会社にいた誰と成績の上げ方についての議論しても負けることはない。

 

なぜなら、前の会社(塾)は「350点くらいのヤツを420以上にしてトップ高に合格させることができないから」だ。

前の会社のみならず、そんな塾はほとんど存在しない。個人塾にちらほらある程度。

 

400点のヤツを420点にすることは極端な話、誰にでもできる。

420点のヤツを450点にすることはある程度の塾ならできる。

 

でも、切実に塾を必要としている「このままでは到底トップ高に合格できそうにない生徒を合格させる」ということができずに何が塾なのか?

私は前職時代、入社から退職までずーっと思っていた。

 

そりゃ、中3からいきなり入ってきて「合格させてね」は困難だとしても、中1から入ってきた奴なら全員トップ高に通せよ!

と思う。

 

それができない塾にいる者の教育論などまさに机上の空論。

(前の会社は極端なほど新卒が育たずに全員病んで辞めていくパターンだった。能力が低い人財を育て上げ、能力の底上げをする技量がない会社だった。それが生徒指導にも如実にあらわれている。)

 

 

 

 

発掘された3冊は、もはや経営の古典と言えるほどのものだ。

今とは時代背景が違う分、当てはまらないことも多いが、あくまで古典。

時代が変わっても「ビジネスで結果を出す」ために必要な要素は変わらない箇所もある。

 

今一度、読み直し「自分に具体化」して内容を吸収していきたい。

 

 

 

 

元上司に一つだけ、アドバイスできるとしたら

「授業力を身に着ける」

だろう。

 

世の個別指導塾の教室長は、大体が自分では授業することができない。

だから大学生講師に全面的に頼らざるを得ない。

 

しかし、元上司の店舗の立地は大学が付近にない。だから人材が集まりにくい。だから、高校生の集客に消極的だ。これでははっきり言って儲からない。

 

とすれば、自分が授業に入るスキルを身に着け実践し、

そのスキルをそのままこの先入ってくるであろうアルバイト学生に伝授していくことが大切ではないか?

どんなに頼りない学生でもアルバイト応募がなければ質の低い人財でも使わなければならない。それを育てるには自分が授業に、言い換えれば自分が生徒の成績アップに長けていなければ話にならない。

 

だから

 

授業力を身に着けるのだ。

 

直営の集団指導部門で鍛えてもらえばいい。

プライドなどかなぐり捨てろ。

ただ、成績下位層への向き合い方は拙い集団なので要注意だ!

 

そう言った努力が、相手を生かすために「自己を捨てる」ということにつながるのではなかろうか?

 

偉そうに言ったが、偉いのだ。

もっと二人の経営者の抽象概念を具体化するのだ。

元上司の検討を祈る。

 

 

 

早く塾開きてー

 

 

 

 

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