晩酌と相撲好きのブログ

毎日ビール2本程度の晩酌とおいしいつまみ、そして大好きな相撲を愛しているアラフォー妻子あり男の心の内です。たまに本業の教育分野に関することもつぶやいたり。暇つぶしに見てやってください

ドルトムントの香川って今回出てないの?レベルの知識のヤツがドイツ戦を見たけど燃える

ドイツ戦を見た直後にこのブログを書いている。

テレビ画面を通してとはいえ、歴史が動いた瞬間に立ち会えたことを誇りに思う。

 

日本中が歓喜に包まれている中、換気を変わらず行い生活している皆さんに注意を喚起したい。私についてだ。

 

タイトルにもある通り、香川がなんで代表に選ばれていないんだ!

あとルマンの松井は??

フェイエノールトの小野は?(さすがにそれはない。なぜなら小野以下ゴールデンエイジと私はタメだから)

トットナムの戸田はさすがに今Jリーグかしら?

 

そんなレベルの知識しかない「にわかサッカーファン」、もはやにわかですらないオジン(死語)がW杯サッカー中継を見た。燃えた。

 

中継の最中、ちらちら見える選手の字幕の中で唯一知っているのが長友だった。インテルだっけか??

おそらくチームの中では年長者なのであろうが、さすがのふるまいだった。ベンチに退いた後も含めて。

明治大学時代、控え選手だった長友の、応援席からの太鼓のパフォーマンスは伝説だ。応援席の応援が話題になるほど、長友は応援に一所懸命だった。

のちに日本代表になるとはその時見たものの誰もが夢想だにしなかったに違いない。んなことはないのか?

…そんな余計なことはインプットされているオジンである。

長友って何歳なの30くらい?え?36!!??うそ!おじさんじゃん!なのに代表に選ばれてんの??すごくね?

とドイツ戦の最中にスマホいじりながら勝手に驚いたりしていた。

 

サッカー素人の私があえて語る本日の勝利を受けて。

 

24年前の日本初出場フランス大会や20年前の日韓大会。

このころの日本が、わずか20年後にドイツに実力(じつりき)で勝利をもぎ取るようになるなど誰が想像しただろうか!!

 

私が「日本がW杯で優勝する日が必ずや来る」と予感させたのはドルトムントの香川選手の出現だった。

シロウトの言うことである。この記事を生暖かく見守っていただきたい。

 

香川は明らかに今までの日本選手とは動きが違う。何が違うのかはシロウト過ぎて言語化できないのだが、なんというか、動きとシュートがゴールする決まりになっているというかなんというか…。

 

先に誤解なきように申し添えるが、今から言う選手を嫌いなわけでも何でもない。

例えば元日本代表の城選手。蹴るボール蹴るボールすべてがホームラン。そのたびに長い髪を両手でかき上げながら「オーノー」とのたまう。

いやいやこっちがオーノーだ!

 

城選手に限らず、香川以前の日本代表の選手が蹴るボールは皆ホームラン競争をしているかのごとくあさっての方向に飛んで行った。逆に相手チームのボールはことごとく自陣ゴールに突き刺さっていった。

 

私はこんなイメージでサッカー日本代表を見ていた。

 

しかし、香川は違った。

違ったとかなんとか調子こいて言っているが、サッカーのサの字も知らない。

オフサイドは分かる。すごいでしょ。

香川の蹴るボールはことごとく相手ゴールに突き刺さっていく。

私の理想とする選手だった。そんな選手が日本に誕生したとは!!

こういった選手が誕生する可能性があるのであれば、遠い将来、日本は必ずやW杯優勝を成し遂げてくれるだろう。

心の底からそう思った。

プロ野球ニュースのマンデーフットボールを見ながら。懐かしい。いまでもやっているのか??

 

と思ったら、思い出した。前回の2018年大会はまともな勝ちがなく、とうとう

日本の成長が止まった=限界が訪れたか

と感じさせた。

 

からの今回のドイツ戦勝利だ。振れ幅がデカすぎる。今回の目玉選手は誰だ?

もしかして日本代表全員が香川クラスなのか?ひょっとしてそれ以上のヤツもいるっていうのか?

サッカーに詳しくないとこういう時に困る。

 

 

試合後のインタビューで日本選手の誰かが言っていたが(長友以外マジで顔知らない)、

「前半はドイツへのリスペクトが強すぎてダメだったが後半は切り替えた」

という趣旨のコメントがあった。

納得できるような気がするが、私はもう一歩踏み込みたい。

今までの歴代日本代表ならば、切り替え程度でどうにかなるとは私は思えない。要は、今の日本代表は戦術や精神の切り替え程度で戦力を増強(元ある戦力をフル活用)させることができるほど、元々のレベルが高いのだと思う。

 

 

日本はもう、ここまで来た。チャリで来た ではない。

 

 

時代の流れか、W杯の試合中継が地上波ではほとんどなくなり、ネットでの中継が主となっている。そのせいか、地上波でのW杯盛り上げが足りないっていうかほとんどない。

 

日本ではW杯離れが進んでいるのではないかと懸念する。事実、今回のドイツ戦の視聴率ってどれぐらいだったのか?さすがに50%はいったか??ひょっとしていってねんじゃね?

 

そんなことはお構いなしに日本代表は進化し続けている。今後も試合を楽しみに見させていただきます。応援しています。にわかですらないやつに応援されてもしょうがないと思うけど。またしあさっての試合に注目しよう。

5年ぶりの免許更新。「不変の」真理。

 

皆さんは5年前、何をしていたか覚えているだろうか?

 

私は覚えている。が、遠い昔の出来事に感じる。

それほど、この数年は激動の生活だった。今も。

 

この5年間で一番の変化は子供の誕生だろう。それも二人も…。

次に前の会社を退職したこと。5年前は前の会社にて多重労務に忙殺され、いろいろな方向への殺意を抑えるに大変苦労した時期だ。当時の多方面への恨みはところどころ風化し始めているが、決して消えない部分もある。

 

たった5年といえども、時の移り変わりの速さを実感しているのが率直な感想だ。

 

さて、ちょうど5年前の免許更新時。

前の会社で働く会社員であった。我が家にまだ子供は誕生していなかった。

うだつの上がらない中年男は毎日のささやかな楽しみである晩酌にすがり、なんとなく息をしているだけの生をむさぼっていた。

 

5年前までは、免許センターのほぼ真ん前に住んでいたこともあり免許更新の際はいつも徒歩で向かっていた。ゴールド免許であることの優越感を、他の更新者たちに勝手に感じながら、誇らしく30分の優良運転者講習を受けていたものだ(違反者は2時間、一般は1時間)。

のちに判明するのだが、免許保有者の6割はゴールドなんだって。ギャフン(多いやん)!

 

5年前の更新時講習では、「環状交差点」について教わった。

ゴールド免許保持者は更新が5年ごと、すなわち講習を受けるのが5年に一度のため、交通事情に疎くなる傾向にある。交通事情浦島太郎だ。世の中に信号機をあえて設置しないこんな交差点があったなんて!!

 

環状交差点は東北では宮城県を中心に、わずかしか存在しないらしい(秋田県はいまだにゼロ!!さすが日本一早く滅びる県!)。

ごくごく簡単に通行ルールを説明すると、環状交差点に進入するときは必ず左折にて時計回りに進行しなければならない。仮にすぐ右隣に自分の入りたい道があったとて、右折不可。必ず左に大回りして時計回りに目的の出口まで進む必要がある。

 

この講習受講から4年後。

仙台市のなんでもない住宅街をクルマで走行中、突如出現した環状交差点を見事クリアーできたのはこの講習のおかげだ。正直パニくったが。

 

 

そんな5年前の講習を思い出した。

もう一つこの講習で覚えているのは、講師だ。60歳くらいのおっさんだった。おそらくは警察の天下り組だろう。なかなかのべしゃり能力で、時にはユーモアを交えながら講義を進めていく人物だった。

 

「最近厳罰化されたのは飲酒運転。これは皆さんにような優良運転者には全く関係ないですね!」

「次にあおり運転。これも皆さんには全く関係ないですね!」

「次に…。全く関係ないですね!」

 

わざわざ講習を受けに来ている我々に、わざわざ講義しに来ている講師本人が

"全く関係ないですね"

とセルフ突っ込み的なワードを秋田訛りで入れてくるとかなり突発的な笑いが私の中で生じてくる。

 

笑わせようとしてんのかこいつは?

でも笑う雰囲気でもないし、なんなら冒頭でこいつは「受講態度が悪ければ免許証を渡さない可能性もある」とかふざけたことをぬかしていたしな…。

しかしこの笑いの生み方は参考になるかもしれん。

 

…などと講習中、私は思考していた。実際その場にいなかった皆さんには全く伝わらないとは思うが、現地での "皆さんには全く関係ないですね" 攻撃はディフェンスしきれるものではない。普通に笑ってしまう。

 

なかなかやるじゃねーか。オッサンよ!

 

こういった感想を抱いた5年前の優良運転者講習であった。

 

 

さてやっと今回の免許更新の話に入ろう。

今回、免許センターへは車で向かった。5年前とは違い、車で4分ほどの土地へ引っ越したためだ(近っ…)。

現在、秋田県運転免許センターは新庁舎を建築中のため、駐車場が狭まっている。非常に不便だ。だが仕方がない。

中に入ると「そうそう。このボロさ!」と5年ぶりのおんぼろ庁舎にわずかな懐かしさを感じながら手続きを進める。

思えばここは18の時に原付免許を受験しに来た時からの付き合いだったなーなどと感慨にふけっている時間はあまりなかった。

 

最後に金(更新手数料)を支払ったら、後は講習室に入り、講義が始まるのを待つのみだ(30分の待ち!やめてほちい!)。

金を支払う時、今までは「正規費用と抱き合わせ」で説明のあったかの悪名高き

交通安全協会に入りませんか」

勧誘が、別個に、最後になっていた。まあ、今までが悪質過ぎたのだからしょうがないか。いつから変わったのだろう?18歳の時に原付免許を取った際、交通安全協会に加入させられたが、加入が義務ではないと知ってからは毅然とノーを突き付け続けている。

18歳当時、あまりに流れるように「更新手数料○○円と、交通安全協会加入料の□□円となりますがよろしいですね?」と畳みかけられれば、私のような何にも知らんガキはホイホイと金を搾り取られてしまうだろう。当たり前のことだ。

 

待ちに待った(待たされに待たされた)講習がやっと始まった。

講師はなんと、5年前と同じオッサンだった。あの話芸は一つも錆びついてはいない。

が、何か物足りない。そう。話の展開が異様に遅いのだ。

 

いや、オッサンはおそらくは5年前と何ら変わっていないのだろうが、今の私は耳が肥えている。なぜなら5年前との大きな違いは「YouTubeを日常的に視聴している」点と「自ら音声配信をしている」点の2つある。

YouTubeで効率の良い映像(適宜カットされた完成映像)を視聴したり、自らマイクに向かって話を毎日したりと、講師が話す内容やスピード、分かりやすさに自然と審査してしまう自分がいるのかもしれない。

 

オッサンはおそらく、5年前と何にも変わっちゃいない。変わったのは自分の感覚だ。それに気づいた。と同時に、何にも変わらない悲しさも同時に感じた。それはそうだろう。更新時講習で講師の出来がいい、悪いなどのフィードバックを受講者から受ける機会などないだろう。あっても受け入れるかどうか?

 

そもそもフィードバックなど不要であり、講習を行ったというアリバイがあれば御の字なのである。国からすれば。

そりゃ講義内容のブラッシュアップがなされるはずがないよなと思う。

5年間、なんの成長もない自分に何も感じないのだろうか?オッサンのみならず、他の職員がたもおそらく、5年前の自分と今の自分を比べてここが成長した!!と言える部分は少ないのではないか?

そう勝手に想像してしまう。

 

私も人のことを言えない。もしもあのまま前の会社にいたら、全く成長のない5年間になっていただろう。恐ろしすぎる。仮に今、私が前の会社に戻るようなことがあればもう、無双状態だろうと思う。集客・従業員教育・顧客満足度向上、すべてにおいて高いレベルで対策がとれる(上司を無視すればすべて可能だし実際に無視できるし)。

とはいえ前の会社は勤務時間の割に待遇面が激悪なので収入面では報われづらい。

 

免許センター庁舎内は、一言でいえば「永遠に変わらない場所」だ。

建物はもうすぐ生まれ変わるが、その内部システム、働く人、そして運転免許制度、すべてが生きる化石だ。何も変わらない。別に批判しているわけでもなんでもない。変わらないことを是とする人生を好む人もいる。極論、人間にとって変化はリスクだ。生存を脅かすリスクだ。リスクを冒すのは本能レベルで避ける。これが通常の人間の反応だ。

 

私はどうかというと、変化を受け入れる人生でありたい。むしろ変化を生み出していきたい。

変化を燃料に自分を燃え上がらせていきたい。そう思う。

よもやこの中途半端な年齢になって酒をやめるとは思わなかった。

変化よ万歳!

 

さて、たばこもやめたし酒もやめた。あとは女遊びくらいか。

しかし女遊びはしばらくやめられそうにない。あと10年は続くものと予想。

向こうから拒否られる時が来るのが長引けばいい。そう思う。娘二人の思春期よ、来ないでー。

 

ちなみに、ゴールド免許になるコツは下記の記事でご紹介済みなのでダッシュで見に行ってほしい。ついつい違反して摘発されがちな方には参考になるだろう。

mar1003.hatenablog.com

「一強を作らせない」消費活動のすゝめ

 

Amazon musicが改悪された。

今まではかなりの曲数を無料で、かつプレイリストまで作成して聞くことのできる親切設計であったが、なんとこの11月からは聞きたい曲を聞くことができなくなってしまった。


正確には全曲にシャッフルがかかってしまい、自分が聞きたい曲にたどり着くのに天文学的数値レベルの時間がかかってしまうのだ。特に破滅的なのが「あなたの選んだ曲に似たような曲をコチラで勝手に選んで再生して差し上げますよ」
という謎がナゾを呼ぶ最強のシステムだ。どの層に向けてんだよ!

 

昨日まで素晴らしく便利なサービスがいきなり今日から使えなくなる。恐怖にも似た心情が頭の中を支配する。いっそ、最初からなかったらよかったのに…。出会わなければ別れもないのだ。


Amazon musicを使いたくば、おとなしく有料版の月額千円のヤツに加入せよ。これがAmazonからのメッセージなのだ。

 

こういった「いきなり改悪」は規模の大小問わず、どんな企業も起こしうるものだ。大企業で言えば楽天楽天ポイントは年々、そのポイント付与率が下がり続けている。もはや楽天カードを持つ必要性は薄い。


小規模店舗で言えば、例えばポイントカード、各種割引制度、飲み放題などのサービスメニューの廃止などが挙げられる。
当たり前に利用していたサービスが突然に消失してしまうのは本当に悲しいし実害が大きい。

そこでだ!
来たる「いきなり改悪」に向けて、イヤ、その阻止の手段として私が今回提唱したいのが、リスク分散型消費だ。
なんのリスク?そう。「いきなり改悪」というリスクに対してである。

企業側がいきなり改悪を仕向けてくる理由は複数あるが、私たちが対抗できうるのはそのうちの一つに対してだ。
それは


一強による改悪


これを阻止しうるのが我々パンピーなのだ。

Amazonは巨大な通販サイトだ。もしも皆さんの中に「本を買うならAmazonしかないね」などと思い、実際にAmazonのみで書籍を購入されている方がいれば、考えを改めてほしい。


どう改めるのか?それは「リアル書店でもたまには本を買う」ということだ。
皆が皆、Amazonからしか本を買わなくなったらどうなるか?当然、リアル書店は全滅する。また、他の通販サイトも弱体化するだろう。
そうなるとどうなる?私がAmazonの経営者なら確実に値上げを敢行する。とりあえず送料無料の廃止に手を付けるだろう。


そうなってからでは遅い。他の手段で書籍を購入しようにもすでにAmazon以外は全滅だ。その世界線を作ったのは私たちなのだ。

 

これは御伽草子などでは決してない。私たちは「一強を作らせない」ことを頭に入れて購買行動を取る必要がある。
だから、たまには街の本屋で本を買おうぜ、ってことである。たまにはっていうかその道を通るんなら、いつもそこで買おうぜ、である。
新刊なら本屋にて予約注文すれば時差無しで本を手に入れることができる。

 

Amazonからしたら、「(まだリアル書店が栄えているこの時代に)送料無料廃止なんてやったら客が離れてしまう」と思うだろう。
そう思わせなければならないと私は思う。

 

話はそれるが、一般的に作家が新刊を発表する際、必ず「書店で見かけたらぜひ手に取ってください」のようなことを言う。
逆に皆さんは聞いたことがあるだろうか?「私の新刊はAmazonで買うのが一番早く手に入れられる手段なのですぐポチって!」などという作家を。
いるはずがないのだ。もしも作家が「アマゾン」のアの字でも出したら最後、もはやリアル書店店頭にはその作家の本は並ばなくなる。
リアル書店に陳列される宣伝効果は計り知れない。それを捨てるわけにはいかないのだ。

 

本を作る立場の人たちは、この記事の主題である「Amazon一強を作らせない」ことに腐心している。
私たちもそれに続く必要があると思う。

 
皆さんの身近にもそういった一強が存在していないだろうか?
ものすごい流行っている飯屋など。店側が調子をこき出したらぜひ他の店の利用頻度を高めよう。
一強を黙らせる最強の手段は「その店を利用しない客を増やすこと」だ。これに勝るものはない。
間違っても店に要望を入れることはしないように。絶対に聞き入れない。
流行ってから調子こいた店は、また流行らなくなるまで危機感を抱くことはないのだ。

 


…音楽聞くなら結局、レンタルCD借りてスマホに入れるのが一番確実かな、と思うカセットテープ世代の42歳、もうすぐ43歳なのであった…。

「セブン店内でおにぎり少し食べたら注意された」 全国ナンバーワン教室長である私の意見

 

下記に出てくる55歳の行政書士さんが、やたら香ばしすぎるので今回の題材にしたいと思います。

 

news.yahoo.co.jp

 

まだ読んでいない方は、できれば上記ヤフー記事をお読みいただいたうえで本記事をご覧いただけると面白くなるかと思います。

 

 

 

上記ヤフー記事を要約すると

・55歳男性客が、購入したコンビニおにぎりを店内で食い始めた(コーヒー出来上がるのをマシンの前で待ちながら)

 

・店員から「ここは飲食禁止です」と注意された

 

・そのことに腹を立て、店員を質問攻めにしてなおかつ自分のブログとかにも不満を発信した(店名さらして)

 

ということだ。

おそらく、この55歳男性は「炎上目当て」であえて変な主張を発信したのだと思うが、今回私はまんまとそれにのっかる。

 

この件についての私の意見は、次のひとことに凝縮される。

 

店内がおにぎり(具とか飯粒とかノリの破片とかあと包み紙とか)で汚れたら、どう落とし前付けるのだ??

 

である。

近年、コンビニおにぎりの質は異常なほど高く、特にその海苔はガンガンにパリッパリのままいただける素晴らしい質感となっております。皆さんもぜひどうぞ。ちなみにコンビニおにぎりのごはん部分はなぜか油分をまとっております…。

したがって、ノリの破片を1ナノミクロも床に落下させずにおにぎりを食べきることなど不可能と言える。

 

また、55歳と言えばおじいちゃんだ。おじいちゃんになれば様々な部分の震えが止まらない年頃でもある。手に持ったおむすびがいつコロリンすっとんとんしても全く不思議ではない。ましてやチャーハンおにぎりなどは食すそばから飯粒を散乱させる物理法則が発動するため(?)もはや「コンビニおにぎりを食す=コンビニおにぎりで地面が埋まる」という等式が成り立つほどだ。ほどか?

 

 

以上のことから、店内を掃除する手間(負担)が莫大なほどに増加してしまう。

それが店内でコンビニおにぎりを食す、という行為なのである。

 

私は全国ナンバーワン教室長になったが、教室長になって初めて学んだことをこのニュースを見て、思い出した。

それは

お店は、必ず誰かが掃除している

ということだ。

 

何を言っているんだ?と思われるかもしれないのだが、これに思い当たる人は意外に少ない。例えばショッピングモールのトイレ。トイレは客以外の他の誰かが掃除してくれている。それにより客が利用できるようになっている。

誰が掃除しているのか?そう。掃除の担当者だ。

「掃除担当者は掃除が仕事だから別に問題ないだろう?」という人もいるかもしれない。

しかし、掃除担当者は「皆がきれいにトイレを使った後の掃除をするのが前提」だということはあまり知られていない。だから、通常よりもラフな使い方をしたトイレを掃除するにはとても手がかかるし、心理的、肉体的負担が増す。「いつもより汚い状態を掃除したからボーナスね」などということも当然、ない。

もう一度言う。私たちは、誰かが掃除してくれているから、ショッピングモールのトイレを使うことができるのだ。決して無条件で誰もなんの文句も言わず、手配も何もなくトイレがきれいになるわけではない。

そう。

このことに思い当たれる人間が、本当に本当に少ないのだ。いろいろな人と話すと痛感させられる。

 

ショッピングモールのトイレ掃除は、専用の人員を雇用することが通常なのでまだマシかもしれないが、例えば小規模店舗のトイレ掃除はそこの店長以下スタッフが行う。

店舗スタッフの仕事は「売り上げを上げること」だ。トイレ掃除はマジで脇の仕事に過ぎない。トイレ掃除をしているヒマなんぞあったらもっと売り上げを上げる活動をしたい。客がそのトイレを丁寧に使えば使うほど、トイレ掃除は楽になる。逆もまたしかりだ。トイレを平気で汚す輩もいる。こういった輩は普段、自分で掃除をする機会がない可能性が高い。人の立場に立って物事の思考・判断ができないのだ。

 

私も教室長時代は教室のトイレ掃除・机ふき・掃除機掛け・ゴミ箱のごみ集めを毎日のように行っていた。

大教室ともなると、一人で一日の掃除を行うと軽く2時間はかかる。かなりのムダ時間だ。特にムカついたのはゴミ箱に飲みかけのペットボトル、これはまだマシな方だ。中には飲みかけの液体がたんまり入ったままの紙パックジュースが捨てられていることもあった。これには激怒せざるを得なかった。生徒に対し(誰かは知らんが)殺意に近い感情を持った唯一の瞬間であった。

なぜそういった感情を持ったのか?飲みかけの処理がメンドイから?違う。うちの生徒が「片づける奴のことを想像できていない」ことに腹が立ったのだ。塾の中だけならまだいい。私がメンドイながらも処理すればいいだけの話だ。だがこういったことはほかでも必ずやらかす。ナチュラルに。外部の人に迷惑をかけちゃいかん。

 

だから、うちの生徒にはごみ捨てや施設利用のルールの遵守を徹底させていた。掃除や管理をする人のことを考えてほしいからだ。

生徒たちは私の気持ちを、少なくとも最終的には汲んでくれていたと思う。中学生や高校生たちがだ。

 

しかし、この55歳のおじいちゃんは何なのだろうか!

中学生や高校生以下、イヤ、以下ではなく未満だ。圧倒的未満。

おそらくは、もう55歳という年齢になると「考え方」を変えることは非常に難しいだろう。

言葉を選ばすに言えば、早めに絶えてほしい。そう願わずにはいられない。子供たちのために、一刻も早く絶えるのだ!!頼む!!

 

家でも学校でも店でもそうなのだが、人が集まる場所には必ず、そこを掃除してくれる誰かが存在している。そのことに今一度、思いを巡らせて行動してみないか?

おじいちゃんにはそう伝えたい。彼の心に響かせる自信は極限までない。だから叫ぼう。貴様は2度とコンビニに行くな!と。これなら伝わるだろう。落着、と。

 

 

…炎上商法に見事引っかかったきらいがあるが、まあいい。久々にゴミ箱に中身ほぼ満タン紙パック事件を思い出した。あれは強烈だった。育ちのよい生徒が多い客層だったので衝撃的だった。その後、チクチクとじわじわ攻める掲示物を作成・掲示の上ホームルームでの啓発を続け、生徒のマナーは全体的に向上した。打てば響く相手とコミュニケーションをとるのは楽しい。ってか有意義すぎる。自分の勉強にしかならない。生徒たちよありがとう。今回のことを振り返ることで、また一段と思考が深まった。当時関わってくれた生徒たちに改めてお礼を言いたい。オブリガード。

 

 

 

死んでも床にモノを置かない。 単行本 – 2019/2/20

一年半、毎日音声配信している私が感じる「残念」な配信者

 

皆さんは音声配信、お聞きだろうか?

 

私はVoicyにて二名のパーソナリティーの放送を欠かさず聞いている。

この二名はおそらく、日本の再生数トップ1、2だろう(1,3か?)。

 

さすがに役に立つことばかり発信してくれる。

これからも聞き続ける。無料でいいのかしら…?

 

 

 

ある界隈では音声配信が来る来ると言われ続け早や数年。

いまだ世間に広まる気配はない。

 

日本のトップ配信者ですら、放送一回につき、再生数は数万。

これでも驚異的な数字だ。

でもYouTubeに比べればあまりに少ない再生数だ。

 

 

音声配信と映像配信のユーザーの違いはその意識の高さにある。

音声配信は、例えば台所で料理を作っていながら、車を運転しながら、夜に寝床で目をつむりながら、それぞれ聞くことができる。

一方、映像配信は耳に加え、目の自由が奪われてしまう。これは時間的にも、脳の持久力消耗の面から見てもデメリットとなってしまう。

 

また、映像は視覚的に目を引くように大げさな表現や効果音が多用されるなど余計な部品が増えてしまうため、情報のインプットという目的からその適性を鑑みた場合、決して効率の良い方法とは言えない。

だけれどもいまのところ、分かりやすい映像配信が充実している現代において、あえて音声配信を聞くメリットは一般層には見いだせないようだ。

 

だから、この時代に音声配信をわざわざ聞くような層は、深い内容を効率よくインプットをしたいという欲が強い。要するに意識高めなのだ。

 

しかし。

 

音声配信は全然流行っていない。

その理由は明らかだ。そう。配信される音声の質が総じて低すぎるのだ。

 

私たちは「音声配信」と聞くと、ラジオのようなクオリティを想像する。皆さんはラジオの番組に対してさして深くその質を考えたり感じたりすることはないだろうと思うが、どっこい、世のラジオ番組って、レベルがめちゃくちゃ高いのだ。これは音声配信をやったりほかの配信者の音声配信を聞いていると痛感する。

 

そのラジオ番組が実際に放送されるまでに、何人の人員が関わり、放送内容を精査し、打ち合わせをし、リハーサルをし、収録を迎えるのか?労力とコストは計り知れない。

聞いてて正直「ショボいなあ」と感じるラジオ番組でさえ、数々の難関を乗り越えてリリースされたエリート番組なのだ!コミュニティ放送の一部を除く!スマン!

 

皆さんには、もしも機会を作ることができるのであれば、一度音声配信にチャレンジしてみてほしい。内容はなんでも構わない。配信はstand.fmがいいだろう。審査なしで無料で自由に音声を上げられる。

 

音声の録音が終わったら、自分の声を聴いてみてほしい(最初は『え?これが自分の声??やだー』現象が発現するが、慣れの問題でじきに消えてなくなる)。

いかに自分のべしゃりがショボいかがよくわかる。また、自分では完璧と思っていた理論、すなわちしゃべった内容にも納得がいかないかもしれない。

自分の話術と思考の精度、これらの稚拙さを痛感してしまうこと請け合いだ。

しかし!これは悪いことでは全くない。ここがスタートだ。ここからは悪くなりようがなく、良くなるしかないのだ!

 

音声配信をする側の音声を発信する魅力は、発信者自身の成長にあるといっても過言ではないのかもしれない。

 

音声配信のパイオニアの一翼を担っているという大それた感覚を実は抱きながら、日々音声配信に励んでいる。まだまだ内容はショボい。べしゃりは前職の経験があるため多少はマシだと思う。

 

もうちょいの辛抱だ。私はそう思う。

検索エンジンに、音声配信が載っかること。これが実現されれば一気に音声配信は広まる。まともに数を数えたことはないが、おそらく私の放送数は400以上はあるだろう。検索エンジンに表示されるようになれば、私の放送も世間の目にさらすことができるだろう。

 

最後に。

 

特にstand.fmで顕著なのだが、配信一つ一つの質の低さが気になる。

具体的に言えば、「べしゃりの能力」だ。

ボソボソと何を言っているのかが分からない、もしくは注意深く聞かないと分からない。そういった配信も意外なほど多い。それらに比べれば私の配信など神レベルである。しかし、「べしゃり」は訓練で一定のレベルに達することが可能だ。

練習あるのみである。

 

問題はここから。

stand.fmには無名配信者がひしめき合っているのだが、何を思ったか、自分の自己紹介を毎回必ず冒頭の1分間ほど入れてくる奴がいる。あまつさえ、そのあとで数分間、「昨日街を歩いていたらこんなことがありましてね…」などと小噺が始まったりするのだ!!!

 

 

 

誰が聞くねん!!!

 

 

 

 

 

有名芸能人ならいざ知らず、私たち無名の音声配信者の素性や小噺など世間は欲していないのだ。有名芸能人の「ガワ」だけ真似たってダメである。

欲しているのは「こいつは有益な情報を提供してくれるのか?」に対する正答だ。

正答とはもちろん、有益な情報をちゃんと発信することだ。

 

音声配信では、残念ながら「よさそうな場所まで早送り」ができにくい、というより不可能といった方がいいかもしれない。

映像では序盤の小噺を早送りし、本編と思しき箇所まで飛ぶのは容易だ。画面というビジュアルを視認できるからだ。

でも音声配信はそうはいかない。早送りしたくてもできないし、強引にやったところで話を途中から聞かされ、意味不明になってしまう。

だから、音声配信は最初から最後まで聞いてみないとその放送が有益か無益かが判断できないのだ。ただでさえ、リスナーからは審査の対象とされやすい音声配信なのに、わざわざ最初の数分を犠牲にさせてまで強制的に自己紹介と崇高なる小噺を押し売りしているわけだ。

 

誰が聞くねん!!!

 

 

私たち無名人どもは、音声配信をするならばその放送のタイトルどおりのことをのっけからしゃべりちらす。それが責務だ。

貴様の自己紹介と、なんの話芸にも裏付けされない小噺なんぞ要らん。

役に立つことしか言うな。「あ、この配信者は役に立ちそうやな」って思ってくれたら向こうで勝手にプロフィール熟読してくれる。

 

音声配信者一人一人が質を高めていかないことには、私の素晴らしい放送群も土に埋もれていってしまうだろう。音声配信者諸君!もう自己紹介はやめよう!頼む!誰も聞かなくなっちゃうよ!!!!!!

 

 

 

…ところでクラブハウスってどうなったんだろうね?

瞬く間に消えたSNSだった。

 

 

今日はおしまい。

 

ちなみに、私の配信はこちらです

https://stand.fm/channels/5f79b1fbf04555115de5584f

 

試しにどんなもんか聴いてみてください。

高級焼肉とかをおごってもらった

三か月ほど前のある日、友人から高級焼肉やらなんやらをおごってもらった。

友人は私だけではなく、その他に3人を従え合計5人のその夜の会計をすべて、払ってくれた。

その合計なんと15万円。

 

その友人は金持ちなのか?別にそんなことはない。

要は、友人の会社の「勤続年数に応じて支給される(正確には後日精算)慰労金的なシステム」の恩恵に我々はあずかったのだ!

 

その慰労金は、モノのように後に残るものには使えず、旅行(宿泊代)とか飲み食いにしか使うことができない。

旅行に行こうにもこのご時世で会社からは旅行は控えよとの指令が出ているし、

かといって飲み食いで自分一人で慰労金使い切るのも大変、ということで私たち同級生4人に白羽の矢が立ち、ご相伴にあずかったという経緯だ。

 

 

高級焼肉と言っても、

これが6,000円という程度。大した事ある。

奢りじゃなきゃぜってー頼まねー。

 

 

わざわざ個室を頼んだ。給仕してくれたスタッフさん(おばはん)が最初は丁寧な対応だったがだんだんと扱いがぞんざいになってきたのは我々が庶民だと気付いたからか、今思ったが、チップがなかったからか?

 

とにかく、普通であればありつけない高級な食事を堪能させてもらった。

 

私が友人(独身)の立場だったら、家族や恋人に使うだろう。しかし、友人は私たち同級生を選んだ。非常にありがたい話だ。逆に、なぜそこまでしてくれるのだろう?分からない。

 

もしかすると、この食事中にそのことが話題となった可能性もあるが、残念ながら覚えていない。

っていうか、二軒目以降の記憶が一切ない。もったいない。最近マジで、酒飲む→記憶喪失、の度合いがひどすぎる。

 

 

友人のふるまいを見て、私の考えは硬直し始めているかもしれないことに思い当たった。

もしも私がこの慰労金制度を活用できるなら、真っ先に思い浮かぶのが子供だ。

子供と一緒にどうこうしよう、こういった発想しか出てこない。友人とどうこうしよう、などという思いは浮かばない。

 

子供に金を使うのが当然、子供に喜ばれることである、と今は盲目的に思っているが、果たしてそうだろうか?子供はまだ幼い。金の大小よりもモノより思い出ではないだろうか?人生初はセレナ発!である。私の愛車はフィットだが。

 

ともすれば、子供がいる=周囲から何らかの形で優遇されたい

そんな自己中心的思考に陥ってしまう危険性が、親にはあるような気がする。

私だけかもしれないが…。

 

 

あぶく銭(ではないけどね、慰労金は。)を手にしたら、友人たちと語らおう

こういった心情に、真っ先になる自分に戻りたい。

 

 

 

最終的に余ったいくばくかのお金で友人は、(いつもどおり)一人勇敢に個室浴場(慰労金ルール的にOK)へと乗り込んでいくのだった…。

私たちにとっても、友人にとっても、随分と有意義な休日であった。

 

※私は個室浴場ですらも人見知りでダメなので毎度同行を遠慮している。本当です。

子供が生まれたら夫は「かまってちゃん」になるのか?振り返ってみた

 

テレビのバラエティ番組で「母と父が20年間会話ナシなので何とかしてほしい」

という依頼が子から寄せられ、リポーターがいざ、該当の父にインタビューすると

「妻が子育て優先で自分を相手にしてくれなくなったため、(20年間)いじけている)」

とのことで、そのことを知った奥さんと20数年ぶりに和解した、

 

という回をなんかで見た。

 

世の中、こういう夫が多いのだろうか。

 

子供が生まれると、妻としては夫にかけていられる時間など微塵もない。

夫に構っている間に子供の生存が危うくなるからだ。文字通り「生存」の危険に、子供は常にさらされている。

 

それを、独身・出産以前の時代のノリを持ってきては無視され、いじけて妻への怒りや恨みとなって行動化し、発散する。

そういった夫がいることも事実だ。

 

私は、そういったこととは無縁だった。

どうしてだろう。おそらく、事前に予習していたからではないだろうか。第一子が生まれたのが30代後半と、決して年齢的には早くなかった(妻は私と同学年。高齢出産だった。マジでよくやった!)。

だから、様々な場面で話や本、ネットなどで「子供が生まれると夫が幼児化する」ということを知る時間的猶予があった。

自分もそうなるのか?ないと思いたいけど、絶対にないとは言い切れない、なんていう自分がいた。しかし、結果、そうはならなかった。

 

多分、最大の要因は「俺はスゴイ奴だ」と素で、心の底から素で、本当に思い込んでいるからかもしれない。

俺は頭がいい!

俺はルックスがいい!

俺の立ち居振る舞いはモテる!

と本当に心の底から信じている。

 

たまに家の中で「うわっ!誰だこの知らない男前は??」とビビることがあるが、何のことはない。鏡に映った自分を見ただけだった(非常に残念だが、マジ。)。

 

これほどまでに自分万歳の精神だと、妻に構ってもらう必要など全くなく、むしろ子供を構いたい。芸能人並みの頭脳とルックスを兼ね備えた父親と触れ合える子供。

幸せだろう?ワイルドだろう??

 

目指すはキムタクんちやHydeんちとか清春んちとか。

最近、インスタライブ(かなんか?)で見たHyde清春は、さすがに50歳代であることを隠せなくなってきてはいるが、標準の50歳代と比して化け物じみた若さとかっこよさだ。キムタクは言うに及ばず。

 

うちの娘たちはカワイイ。あ、忘れていた!総合格闘技を習わなければ!!

20年後には子供たちを連れ歩いたとき「愛人か?」と間違われるほど、もっとカッチョイイ父親をめざすぜ!

 

…みたいなマインドだと「かまってちゃん夫」になる要素がないのだと実感した。

 

俺はスゲー

 

100無料大数%主観から導き出されたこの解に抗える「かまってちゃん夫細胞」はないと断言できる。

 

そして、かまってちゃん夫細胞を絶滅させたなら、子供を育てよう。決してこう思ってはいけない。

「あくまで妻のサポートが夫」

これは家庭崩壊のみを招く考え方だ。子供を育てるのは親だ。夫婦でいるのなら、どちらが主となり育てるかは全く区別はない。仕事を持っていようが持っていまいが全く関係がない。

 

サザエさんのように、硬直化した男女の役割分担を平気で日曜の夕方に流すテレビ局があるが、正気の沙汰ではない。母さん、お茶。ではないのだハゲ!

 

どうか、良好な、というか普通の夫婦関係を維持したいのであれば、働いているから子育てはサポート程度、などと思ってはいけない。

 

表面上は無事に子育てが終わったとしても、その後に熟年離婚が待っている。

 

笑い話で終わればいいとは思うが、これはマジだ。

特に女性は相手のマイナスポイントを欠かさず例外なくカウントし、自身の記憶に蓄積させていく。忘却は絶対にしない。

 

子育て中のマイナスポイントを、のちの人生で取り返すことは不可能と言っていいだろう。マイナスポイントを生み出し続けた年月と、少なくとも同等の年月を必要とする。

 

 

と、いうわけで、子供が生まれたら、夫はかまってちゃんになっているヒマなどないのだ。仕事して、子育てもメインでやって、死ぬまで動け。時は来た。それだけだ。

 

以上!

 

 

 

 

子どもが生まれても夫を憎まずにすむ方法 単行本(ソフトカバー) – 2017/9/26